能の主人公の語る言葉には、必ず「いにしえ」を懐かしむ思いがある。世阿弥以来六百余年の間、舞台の上下を問わず、人の「いにしえ」を恋うる心がこの芸能を支えてきたとも言えるかもしれない。
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「いにしえ」とは「往(い)にし方(へ)」、つまり「自分が元いた場所」という意味である。元来、具体的な地上の地点を表す言葉だったものが、その場所を思い出すという行為の堆積によりいつしか過ぎ去った時を指すようになったのだろう。
方角を表す「東」の語源は「日向かし」、つまり日の上る方向で、「西」の語源がこの「いにしえ」だと聞いたことがある。西が「いにしえ」から発生した言葉であるならば、僕らは日の沈む方角からやってきたことになる。事実、僕らの遠い先祖の幾筋かは大陸から九州を通って東へ東へと移動した。九州から大和へ兵を挙げた神武天皇のように、あるいは、大和から伊勢に旅したアマテラスのように、僕らは日の本を追う東行の旅の中で形を成した民族だった。遠い父祖を思うとき東より西へ思いがいたるのは、この遥かな記憶が「にし」という言葉とともに意識の中に生きているからなのだろう。
沖縄では、「にし」と言えば北方を指す。これは、沖縄の人々にとっての「いにしえ」は北にある──つまり彼らが北から移り住んで来たことを表しているのだろう。南と東に別れはしたものの、僕らは共通した「いにしえ」をもっているはずだ。
中世以降に流行った阿弥陀信仰(浄土宗)は「南無阿弥陀仏」を唱えることで、死後、阿弥陀仏の導きにより西方浄土に生まれ変わることができるという教えだった。もちろん、阿弥陀信仰自体は仏教伝来以降すでに盛んだったが、民衆にまで広まるのはこの時代だ。人々はみな、落ちる夕日が金色に煌めかす山の端の雲の向こうに永遠の浄土を幻視した。その西方浄土への憧れには、恐らく「いにしえ」への思いが自ずと備わっていたはずで、だからこそ阿弥陀信仰は人々の心をかほどにとらえたのだと思う。そこにイメージされたのは父祖の地の再訪であり、また母胎への回帰であったかもしれない。
それにしても能舞台から落日を見るとき、主人公達は必ず幕の方に面を向ける(観世流)。能舞台の構造上、東はワキ柱、北は笛柱、南は目付柱、そして幕の方が西と方角が決まっているが、他の方角よりもはっきりと距離を表現できる幕の方を西にあてたのは、能という芸能に西という方角への特別な思いがあるからなのだろう。幕が上がり現れる能の登場人物にとって、文字通り「いにしへ」は幕の向こうである。囃子や地謡の作り出した世界が果てて物語が閉じたとき、登場人物達はまた橋掛りを通って幕へと帰って行く。そのとき、僕らは直前まで目の前で繰り広げられていたドラマが「いにしえ」の出来事であったのだと、無言の退場の隔たりに教えられる。
能は「いにしえ」より来たりて、「いにしえ」に帰すということが運命づけられた芸能なのだろう。
僕らは確かに「いにしえ」からやってきて、いま、ここに存在している。それは時の悠久のある一点であり、遺伝子の絡み合うある一つの始点であり、地上の遠いある地点である。そして僕らの実在も、いつか未来の存在にとっての「いにしえ」となっていくのである。
(写真・文/川口晃平)
川口晃平氏
シテ方観世流能楽師、梅若会所属。昭和五十一年漫画家かわぐちかいじの長男と生まれるも、慶應義塾大学在学中に能に魅せられ、能の道を志す。大学卒業後の平成十三年、五十六世梅若六郎玄祥に入門。その年復曲能「降魔」にて初舞台。平成十九年独立の後、能「翁」の千歳、能「石橋」「猩々乱」「道成寺」を披く。舞台に立つ傍ら、能楽普及のレクチャーを各地で行う。