2026年11月29日(日)に国立能楽堂で野村万作主催『万作を見る会』が開催される。万作氏は1957年に初演した新作狂言「楢山節考」を、7年半ぶりに上演する。
「楢山節考」は1956年に深沢七郎氏が姨捨伝説をもとに発表したベストセラー小説を原作に、万作氏が同世代の演劇仲間と作り上げ、翌年12月3日・5日に水道橋能楽堂(現・宝生能楽堂)で初演した。2015年11月「万作を観る会」で58年ぶりに再演され、以降2019年4月の大阪フェスティバルホール「祝祭大狂言会」まで各所で上演された(最後はNHK Eテレ番組『古典芸能への招待』の収録用、2019年5月22日)。
今回の公演に先立ち、9月17日(木)に記者懇談会が開かれ、作品が生まれた背景、95歳のいま再上演するに至った経緯、そして自身の狂言観について万作氏が語った。

自分たちで新しい狂言を
このたび「楢山節考」の上演が決まったのは、国立能楽堂から上演の相談があったものですから、どうせやるなら自分の会でもやりたくなりました。
私が「楢山節考」を初演したのは26歳頃(1957年)。大学を出たすぐ直後、22、3歳の頃から演出家の武智鉄二さんの仕事(「夕鶴」「彦市ばなし」「月に憑かれたピエロ」など)を茂山兄弟(茂山千作、千之丞)と一緒にやらせていただいたのですが、自分で新しいものを作るべきではないかと思うようになった時期でした。
その頃は木下順二さんの「ことばの勉強会」や南博さんの「伝統芸術の会」にもよく出席していて。そこには尾上九朗右衛門(2代目)さんや中村又五郎(2代目)さんなど、新鮮な思いを抱いている歌舞伎俳優の方々も集まっていました。「ぶどうの会」や劇団民藝の演出家でもあった岡倉士朗さんもいらっしゃいました。
若造がそういう立派な先生と付き合う場があったものですから、自分らで何かを作っていく必要があると思ったんです。学生時代の友達であった能楽研究家の増田正造さん、脚本家の岡本克己さんと協力しまして、『楢山節考』(深沢七郎、1956年に雑誌『中央公論』掲載)というその頃のベストセラー小説で狂言の新作をやろうじゃないかということになりました。
有楽町の日劇に「ミュージックホール」という施設がありまして、そこでギターを弾いていらした深沢七郎さんの楽屋へ行き「ぜひやらしてくれ」と。紹介も何もなく、「誠に図々しいと思うんですが」と嘆願しましたら、すぐにOKをいただけました。岡倉先生に演出を、能楽研究家の横道萬里雄先生に演出補佐をお願いして、単に若造だけでやるんではないよという気持ちで、この「楢山節考」をやることになりました。

初演では私がおばあさんのおりんを、兄(当時・野村万之丞、現・野村萬)が息子の辰吉をやりまして。その頃は本当に人がいなくて、年寄りの人たちにも手伝ってもらってなんとかやったもんです。観世寿夫さんが楽屋に来て私の装束を着けてくれたり、誠に友達同士の結びつきの強い過去がありました。烏(カラス)の役をやってくれたのも茂山千之丞さんです。
そういう風に流派を超えて新しいものをやろうとしたというのは、大変懐かしい頃の話でありまして。私どもより10年上の茂山千作、千之丞という二人の兄弟と、一緒に仕事をできて大変勉強になったと思っています。
新作の意義、狂言へ取り入れた文学性
狂言の新作をやることに、私の場合は「狂言の地位向上」という大きな目標がありました。お能と狂言というのは同じ立場ですけれども、片方が偉くて、片方がお茶を濁すような形であってはいけないと、私は若いなりに考えたんです。「楢山節考」の後も、劇作家の飯沢匡さんがフランスのファルス(笑劇)をもとに作られた喜劇的な狂言に出たり、寿夫さんその他と「冥の会」を一緒に作ったりしました。
あれこれあった上で思うのは、普通の人は古典を見に来ないことが多いけれども、新しいものだと言うと見に来る、ということです。
例えば「夕鶴」をやったのは新橋演舞場でしたが、作家であり批評家の安藤鶴夫さんが「こんなにも狂言の役者たちの声がよく響いて、3階までも通るのかと驚いた」と褒めてくださった。いろんな方が新たな気持ちで新作を見てくださいました。
「冥の会」も終わり、寿夫さんや栄夫さん、静夫さんといった友達たちがみんないなくなってしまい、新しいことをやるにはどうしたらいいかなと考えていた時、(2002年に)せがれの萬斎が世田谷パブリックシアターの芸術監督になったものですから、中島敦の『山月記』や『名人伝』をやりました。
つまり、狂言にいささか文学的な内容を盛り込んでいきたい思いがあった。
いまでも私は「月見座頭」や「川上」といった目の見えない者の演目、あるいは「連歌盗人」のようにほのぼのとしたものなど、人間と人間の交流の美しさを描いた狂言が大変好きでございます。そもそも「月見座頭」も私が20代の時に、父が鷺流の台本から新しく和泉流のために作った演目です。目の見えない人の悲しい物語、あるいは前衛的な作品を、和泉流らしく、あるいは鷺流の中身を取り入れつつやっております。
やはり新しいものをといっても私はあんまり正直漫画が好きじゃありませんので、漫画的な狂言なり能なりにはあまり興味がありません。自分なりの興味というのは文学的なものとか、静かなもの、人と人との交わりの温かさとか。「和」と言ったらいいでしょうかね。そういうものを狂言の中から見つけ出してやっているわけです。
「楢山節考」は、能のパロディーでもあり、すなわち文学的な作品につながると思って作っていたところがあります。
おりんさんは、何もセリフを発しないんです。首を振ったり、手を招いたり、全部マイムで表現する。舞台では雪が降る情景になると、烏が白い着物をおりんさんにかぶせ、それを着込んでだんだん沈んでいく。まあ、死んでいくという風に考えてもいい。 そこへ子供たちのわらべ唄が聞こえてきて、おばあさんが子供の頃を思い出して一緒に踊り出す。


つまり、おばあさんではあるけれども、ピリッとしたお能の主役らしき役であると言ったらいいでしょうか。烏の黒と、雪の白。笛と太鼓の音――太鼓が雪を表現し、笛が子供たちのわらべ歌を表現する。シンプルではあるけれども、そういうような形で作られております。
95歳 いま「楢山節考」を再び
初めてやった時、「これは“狂言能”ですね」と言った評論家がおられました。“能狂言”の反対、つまりお能の形をとった狂言だね、ということでしょう。おかげさまで何回かやったうちに、先日亡くなった演劇評論家の渡辺保さんも大変評価をしてくださいました。
作者の深沢七郎さんも初演の時、「おばあさんが天に昇っていくみたいに見えました」と喜んでくださいました。お家まで挨拶に行ったら、うなぎを出してくれましてね。「楢山節考」は映画にもなりましたが、この間亡くなった篠田正浩監督も我々の「楢山節考」を大変褒め、烏の存在を大変面白く見てくださった。
そういったこともあり、私とすると大変大事にしてきた新作だと思っております。

いま演じるにあたって工夫もしています。おりんさんは辰平におんぶされながら楢山に連れて行かれるのですが、この歳だとおんぶなんかできませんよね。だからおんぶの形に見えるよう、辰平の背に身体を寄せて足を揃えて歩く、といった演出をしています。
もうちょっと新しいことをやるなら、ダンサーの勅使河原三郎さんが「KARAS(カラス)」という一座をやっているらしく、ああいう方に烏をやってもらうのも面白いんじゃないかなと。そんなこと言うと(今度烏役をやる)萬斎が悔しがるだろうと思うのですが(笑)。
烏一つ取っても創作した部分が多い舞台なんです。橋掛リに村人たちが並んで歌を歌ったり、その村人たちが今度は切戸口から出てきて囃子方の真後ろに行ったり、普通の狂言では使わない場を舞台として使っている。今回も新しい工夫を考えておりますので楽しんでいただけたら幸いです。





