国立能楽堂は3月28日(土)、宮城県名取市に伝わる物語に取材した能「名取ノ老女」を上演する。この曲は平成28年(2016年)の復曲初演以来、国立能楽堂をはじめ名取市や京都で上演を重ねてきた。
東日本大震災から15年という節目の本年、国立能楽堂が続けてきた〈復興と文化〉のシリーズで改めて同曲を取り上げることで、能楽をはじめとする文化が、災禍に対しどのような力を持ちうるかを考える。なお今回は、宝生流が初めて単独で演じる全曲版となる。老女を勤めるシテ方宝生流の武田孝史に、この曲への思いを聞いた。
「名取ノ老女」
奥州・名取(現在の宮城県名取市)。熊野権現に篤く帰依した名取の老女は、毎年遠路はるばる熊野三山へ参詣を続けていたが、年老いてついに叶わなくなる。するとある日、熊野三山の使いである山伏が訪れ、老女は熊野の霊験を伝える神詠を授けられる。老女は祈りを捧げ、神楽を舞う。やがて熊野権現の護法善神が現れ、老女の行く末を祝福して去っていく。
——宝生流とこの曲の関わりについて教えてください。
武田:原曲の「護法(ごおを)」は、江戸時代には観世流とともに宝生流の所演曲でしたが、その後、廃曲になりました。手元にある明治26年(1893年)再版の謡本には収録されていて型付もありますが、祖父が御宗家から拝領した明治44年(1911年)版のものには、表書きに曲名は記されているものの本文は抜けています。ですから、明治に入ってしばらくして完全に廃曲になったということなのでしょう。
そういうことですから、無論、私も稽古をしておりませんからまさにゼロからの出発。真摯な気持ちで勤めさせていただきます。

——初演の時から数えると今回で8回目の上演。今回は宝生流単独での全曲版ということで、流儀ならではの色をどのように出しますか。
武田:宝生流は「謡宝生」とも呼ばれるように、謡の美しさを大切にしてきた流儀です。声そのものよりも息を大事にする——「息に声を乗せろ」というのが我々の発声の根幹にあります。また、舞についても動きを削ぎ落としながら、型の先へ気持ちが行くようなやり方を大切にしています。今回は型付けも一から見直し、宝生流らしい音楽性と舞の調和をお楽しみいただければと思っています。
また前回、NHKホールでの短縮版上演(令和5年/2023年)で老女をさせていただいた際には、後シテの宝生和英宗家に対して前場の場を作るツレの感覚でおりましたが、今回は両シテのつもりで勤めたいと思っています。
――演出についてもう少しお聞かせください。
武田:この度は、老女が〈神楽〉を舞います。神楽というと、能では若い女性や女神が舞うというのが通常ですから、初めは老女が神楽を舞うというところに少し抵抗もありました。ただ、考えているうちに老女の神楽もいいんじゃないかと思うようになって。つまり、「護法」ではなく「名取ノ老女」なのだと自分の中で線引きができて、飛び込んでみようという気持ちになりました。それには、以前、東京藝術大学に勤めていた際に他ジャンルの芸能――オペラなどと共演した経験が生きているように思います。なお、今回は〈神楽〉と書くと既存のものと紛らわしいので、〈神楽舞〉とさせていただいています。
——その〈神楽舞〉に込めるものは。
武田:祈り、ただそれだけですね。ここを見てほしいとか、みどころだというようなことではなく、とにかく穏やかに舞いたい。詞章には名取の地名も出てまいりますが、そういう局地的なものじゃない感覚で勤めたいと思っています。
——先生ご自身と被災地との関わりはいかがでしょう。
武田:祖父の代から仙台周辺でお稽古を続けており、当時名取在住のお弟子さんもいました。幸い難は逃れましたが、お稽古にも半年ほど伺えない時期が続きました。
我々芸術・文化に携わる者にとって、被災地のためにできることといえば寄り添うことしかできません。それでも、この時はすぐに寄り添うことさえもできなかった。すると、祈ることしかできないんですね。被災地の方々にとって、忘れられてしまうことが一番つらいことだと思います。「名取ノ老女」を上演することは、東日本大震災に限らずそれぞれの被災地に目を向ける、心を寄せることでもあると思っています。
――最後に、意気込みをお聞かせください。
武田:初演の時には、身にこみ上げるものが多すぎて、舞台人としては本来あってはいけないことではありますが平常心でいられませんでした。復曲初演からこの10年、国立能楽堂や名取市で上演を重ね、時を経て、今回改めて上演させていただく。そう考えると、この曲にとってはいい10年を重ねられてきたのかもしれません。
被災地に寄り添うこと、もちろん個人でもいろいろとなさっている方はいらっしゃると思いますが、国立能楽堂がこういうことをずっと継続しているということはとても大きいことでしょう。私たちもそれに応えるべく、勤めてまいります。
能は余白のある芸能です。今回の舞台をご覧になった方自身が、そこから何かを感じ取ってくれるのが一番ですし、そういう舞台を目指したい。見えないもの、聞こえないものに心を傾けていただける、そういう時間になればうれしく思います。

●公演情報
公演名:国立能楽堂令和八年三月企画公演◎〈復興と文化〉東日本大震災15年(公演公式ページ)
日時:令和8年(2026年)3月28日(土)
演目:復曲能「名取ノ老女」・復曲狂言「鷺」
演者:シテ・老女:武田孝史 護法善神:宝生和英
※チケットは売り切れの場合あり。詳細はお問い合わせください。
●武田孝史(たけだ・たかし)
昭和29年生まれ。シテ方宝生流武田喜永の二男。17代宗家宝生九郎、18代宗家宝生英雄に師事。昭和48年「禅師曽我」にて初シテを勤め、これまでに「道成寺」「石橋」「乱」「翁」「望月」「隅田川」などの大曲を披演。令和7年秋に文化財保護功労で瑞宝小綬章を受賞。重要無形文化財総合指定保持者、公益社団法人宝生会常務理事、一般社団法人日本能楽会理事。同門会「喜宝会」を主宰する。(宝生流プロフィールページ)



